人が人を殺すとき

進化でその謎をとく

Homicide

マーティン・デイリー、マーゴ・ウィルソン / 新思索社 / 1999/11/30

★★★★

まだ何ともいいがたい

 人間の殺人という行動に進化心理学を適用した研究。原著が出版された1988年の時点で新しい研究だったそうで、消化不足という感じもあるが、その後の進展が気にかかる。殺人という行動は、警察の記録として残るし、文化人類学や社会学でも取り上げられることが多いため、統計処理がしやすいということのようだ。フロイト流の精神分析と、文化人類学流の文化相対主義が仮想敵とされており、かなりの分量の批判があるが、アイゼンクほどの歯切れの良さはない。

 第2章「血縁者に対する殺人」、第3章「嬰児殺し」、第4章「親による現代の子殺し」、および第5章「親殺し」では、動物を対象にした行動生態学での知見を使って、これらの行動のパターンに進化論との一貫性があると論じている。一方、第6章「殺しの動機は口論と名誉」、第7章「殺しはなぜ男で女ではないのか?」、第8章「男どうしの対立の論理」、第9章「夫婦間の殺し」、第10章「殺しへの仕返しと復讐」あたりでは、生物学的な性差の話を使って、一夫多妻的な傾向があるヒトにおいては、オスの方が攻撃的性向を持つようになり、殺人のほとんどはそのような性向が暴発したアクシデントであると言いたいようだ。

 この論理の背後には、非血縁者間の殺人行為の典型である「男どうしの緊張関係」や「妻というリソースを巡るいさかい」は非適応的行動である(殺人に到ったのは事故である)のに対し、血縁者間の殺人行為は適応的行動であるという主張がある。なんか変な気もする。このようなことになっているのは、血縁者間の殺人行為が適応的でないように見えるという一般的な見方をする人に対する啓蒙という意図があるからなんだろうか。いずれにせよ、特に進化論をヒトに適用するときには、どのような形質が選択されてきていて、どのような行動パターンがそこからの逸脱なのかがわかりにくい。逸脱は定義上「文化的要因の影響」ということになるので、比較文化人類学的なアプローチによって解明していくしかない。そこで気になるのは、訳者あとがきに書かれていること。訳者らの研究によると、戦後日本で若者の殺人が減っていることがわかったそうである。どうするんだろう。

 もう1つ気になるのは、血縁者間の殺人行為を適応的行動であると説明する際には、親の投資や、親と子のリソースを巡る利害の衝突などの議論を踏まえた、きわめて長期的に動的なモデルが使われるのに対し、非血縁者間の殺人行為や暴力を論じるときには、短いスパンしか扱われていない(その場での激情)ように見えることである。これは、非血縁者間の長期的な協力行動や敵対行動を扱う長期的なモデルが貧弱だ(せいぜいしっぺ返し戦略など)ということによるのかもしれない。

 著者らがどう考えているのかはあまり定かでないが、非血縁者間の殺人は、状況によってはきわめて適応的な行動であると私は思う。それが適応的でないように見えるのは、一般的な意味での殺人を犯罪と認定し、それを処罰する権利を強大な捜査力を持つ国家が独占するようになったからなんではないか。そう考えると、本書の、アメリカの警察関係の資料をベースにした統計的処理にはデータのバイアスがかかっていることがわかる。本書の研究の範囲では、「殺人を犯したが捕まらなかった」というきわめて適応的なカテゴリーがまったく視野に入ってきていないのだ。これは特に検挙率が低いアメリカを扱う場合には大きな問題となるように思う。戦後日本での殺人のパターンが本書で論じられているパターンから逸脱しているということから、検挙率の高さとパターンからの逸脱の相関関係が比較社会学的に立証されれば、非血縁者間の殺人は適応的な行動であるという仮説の証拠となるように思うがどうか。

 夫による妻殺しについては、婚姻制度やコミュニティのあり方によっては、妻殺しは適応的な行動になるんじゃないか。たとえば、親戚が子供を育てるという保証があったり、妻を殺したことが次の妻を娶ることの障害にあまりならなかったりすれば。

 精神分析や文化相対主義などに代表される観念論というか形而上学に反論したいあまり、暴走していると感じられた部分があった。特に気になったのは、種間、異なる性、異なる世代などの間の関係を扱うときによく出てくる「寄生」とか「搾取」とかのモチーフで、人間の社会に見られる観念論を論じている部分である。著者らは、ある種の観念が、支配者の権威を正当化するための搾取的なツールであるといいたいようなんだが、私に言わせればこれも形而上学に見える。自分が権力者でないときに権威に従うのは、適応的な行動である、というていどにとどめておくのがハードボイルドなんではなかろうか。

 第11章「殺人者の責任を問う」では、生物学的な決定論と、殺人行為の責任能力の法律解釈を巡る緊張関係が論じられている。『なぜ人を殺してはいけないのか?』などの観念論も、この文脈でまとめられることになる。気になったのは、「精神異常」による殺人の扱いだ。もともと「精神異常」の臨床的認定がまったく信頼の置けないものであるということは著者も指摘しているが、進化心理学ではどう扱うべきなのだろうか? 「精神異常」という概念そのものが架空のものであると言うのか、「精神異常」というものはたしかに存在し、それは適応的なのだと言うのか。このあたり、曖昧である。後者だとすると、『優生学の復活?』の著者が嘆いている、人間の聖域への侵犯の一例だということになるが、戦場における兵士の異常心理というような一般的通念と整合的ではある。

 以下、個人的な見解。血縁者間での殺人は一般に非適応的だが、適応的になる状況もある(人間以外の動物に見られる血縁者間での殺しとの類比)。非血縁者間での殺人は、「見知らぬ他人」か「敵対者」の場合は中立的ないし適応的である。しかし、協力関係が生まれるようなコミュニティの中では非適応的である。一般に「観念論」は、非適応的というか、不自然な行動を無理矢理生じさせるためのものとして論じられることが多いが、私はむしろ、「このように進化してきたのだから、それと整合的な観念が生じるのは不自然でない」というふうに論じた方が適切なケースが多いように思っている。『なぜ人を殺してはいけないのか?』の項で扱っている、「他人を殺してはいけない」という観念は、コミュニティの中での適応的な行動、つまりコミュニティ内の人を殺してはいけないというルール「から」生じたと考えるべきだろう。「見知らぬ他人」は別に殺してもよい。寒々しい話だ。

1999/12/29

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